お母さんに、42年分のありがとう - 一日一書

お母さんに、42年分のありがとう

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中国の故事に、孟母三遷というのがありますね。

孟子の母は、孟子の教育のために3度転居したというもの。


うちの母も、そのように3度引越しをしました。



1度目は私と弟がごく小さかった時、父と離婚して、

自分たちの生活を守るために郷里へ。


ここは雪深いけれど自然の見事な土地で、

秋には錦のような紅葉、春には桜。


秋の黄金色の田んぼも美しく、

そして冬には、夜に見ると桜吹雪と見まごうばかりの雪が降りました。



そこで思う存分遊んで小学校時代を過ごした後、

私はそこから車で2時間ほどの市街地にある中学に入って、

寮生活をしました。


続いて弟も、同じ市内にある中学校へ。

ここは寮がなかったので、食事付きのアパートに下宿をしました。


小さなお店を経営していた祖母の助けもあったとは言え、

シングルマザーである母が

子供2人にそのような生活をさせるのは、

並みのことではなかったはず。



それまでは小学校の臨時教員をしていた母は、

収入が安定しないその勤めをやめ、

小さな広報紙の記者になりました。


会社に支給されたニコンの一眼レフで写真を撮りつつ、

持ち前の文才を生かして記事を書く母は、

とってもかっこよかった。


衣装持ちでおしゃれな母が、

白っぽいジャケットにロングスカート、

肩には大きなカメラを掛けたいでたちで

颯爽と取材に出掛ける姿が今でも浮かびます。


その時の広報紙に大した興味も持たず、

きちんと取っておかなかったことが、本当に悔やまれます。

今は、それをただの広報の記事ではなく、

母の軌跡として、

読み返したい思いでいっぱい。



中学3年になって、学校に嫌気が差してきた私は、

高校へは進学しないと決めました。


母は猛反対をし、

中学生から親元を離れることを許した自分の責任だと言って、

2度目の転居をします。


この時の勤め先は地方出版の会社でした。


母42歳。今の私と同じ歳です。



後から分かったことですが、

この時の求人には相当な倍率の応募があって、

年齢的にも不利だったはずの母の履歴書が

偏屈だった会社の社長兼編集長に気に入られ、

採用してもらえたようです。


とても安価な集合住宅の一軒も運よく見つかり、

再び弟と3人の、家族での暮らしが始まりました。



ワンマン編集長の元での仕事は

母には相当ストレスフルだったようです。


そのストレスを理解せず、

家に帰っては会社の愚痴をこぼす母に、

嫌ならやめたら?とか、

人の悪口をあんまり言うもんじゃないとか。


弟と2人がかりで、

ねぎらいよりも無理解の言葉を投げていました。


それが目の前の2人を養うために

身を粉にしている母にとって、

どれほどの苦痛だったか。


私も弟も、若くて未熟だったとは言え、

ひどいことをしたなぁと思います。



私が高校1年の時

(さまざまありながらも、高校へは無事に進学しました)、

1つ下で中学3年生だった弟が、

今度は県外の高校に進学したいと言い出しました。


そこは、母と離婚した父の郷里にある、

父の母校でした。



母はまた弟のために、親戚が経営していたアパートの一室を借りました。

しかし、もともとちょっと頼りないところのあった弟が、

台所で水漏れ事故を起こしてしまって、

大家さんである伯父さんに

疎んじられてしまいました。


それで母は、私が県外の大学に進学し、

家を離れるタイミングで弟の所へ。


これで孟母三遷は完了しましたが、

小学校の臨時教員の職に戻っていた母が、

今度は若い頃に新卒で採用された

私立高校から声を掛けてもらい、

そこの国語の講師として、

70歳まで勤め上げました。


その合間にも知り合いのつてで家庭教師の副業をしたり、

別の私立高校の寮母さんをしたり。


子供の教育のため、生きていくために

あらゆる手を尽くしてがんばってくれました。



母はしつけに厳しかったので、

そんなありがたい姿を見ながらも、

その厳格さにはいつも反発していた。


でも、よくよく考えてみると、

私と弟が好き勝手に

こちらの学校に行きたい、

あちらの学校に行きたい、という度、

さしたる反対もせずにサポートに回ってくれました。

(学校に行きたくない、と言った時のみは

強硬に反対しましたが)



高校最後の年、今度こそ学校からは自由になりたいと思って母に言ったら、

「ハクがつくから行きなさい」と、

元教師らしくもない台詞で進学を勧めてくれました。


母としては、学ぶということは素晴らしいことだと

言いたかったのだと思うし、

それまでにも何度もそういう風に伝えてくれていた。


でも、そんな言葉に全く心が動かない私を見るに見かねて

最後の切り札を出したという感じでした。


そのことも今では、

勉強は好きじゃなくても、

大学では友人をはじめ大事なものをいろいろ得たなぁと思い、

とても感謝しています。



大人になり親になって、

働いて生計を立てるのがどれだけ大変で、

子供を育てるのがどんなに大変かを思い知りました。


苦労したよねと母に聞くと、

本当に大変だと感じたのはたったの1回だったと言います。


それは、幼い頃に弟が熱を出したので、

弟をおぶって、私の手を引いて、

病院まで行かなければならなかった。


その時に私が、自分もおんぶしてほしいと、

滅多にこねないダダをこねたのだそうです。


ええ、他にもいろいろ困ったことはあったでしょう?

と思うのですが、

そんな風に、苦労を苦労と思わず、

ただただ子供が望む道を行けるよう、

身を挺してその道を守ってくれた母でした。



10年前に娘を産んだ時、

産後の手伝いに来てくれた母が、

「この30年、夢のようだった」としみじみ呟いていました。


子供のために一生懸命に、

あっという間の時を過ごしたのでしょうか。



私は今、

遊んでくれてありがとう、

産んでくれてありがとう、

大大大大大好きだよ、と

事あるごとに言ってくれる

ありがたい娘に恵まれています。


その小さな娘に比べ、

自分は何てとんでもない恩知らずだったんだろう。


お母さんの厳しさの裏にあった気持ちや苦労を、

微塵も感じたり感じたり考えたりせずに、

ただただ反抗していた。


けれども、そんな母の厳格さも今では魔法のように消え、

あの時は厳しいフリをしてたのよね〜なんて、

呑気に笑う愛すべき人になっています。



だから、厳しかった昔のお母さんにも、

のんびりした今のお母さんにも、

42年分のありがとうを言いたい。


お母さんから産まれて来て、

最高に幸せだし誇らしいよ。


お母さんを心から尊敬し、愛しています。
2015-05-10 23:45 | Comment(0) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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