「性」について考察する - 一日一書

「性」について考察する

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「女性」「男性」などというと、あまり卑猥な感じのしない「性」も、

「性」の一文字となった途端に、何か隠微なものを想像させるワードとなる。


そもそも、「性」とは何だろうか。


私の考えでは、「『性』とは『極』を表す言葉である」。


「極性」「中性」という言葉もあることを考えると、

これはちょっと変な定義にも思える。


しかし、「性質」などというマイルドな定義を許さないような

パワフルな感じが「性」にはあって、

それが「性」を極度に遠ざけたりする要因にもなっているようだ。



「性」を考えていくと、宇宙の成り立ちにまで思考が遡る。


世界はもともと一つ、などと言われるが、

この「一つ」は結構曲者だ。


なぜなら、「『完全なる一』が『ある』状態」というのは

そもそもあり得ない。


無の状態というのは、そこに属性がないゆえに限りがない。


しかし、有の状態というのもまた、

無から生まれるゆえに限りがない。


それで、無から有を生み出そうとするときには、

「たった一つの何か」を生むことはできず、

「一=多(無限)」という、私たちにとってみれば

不思議な等式のような感じで、世界が出来上がってしまう。


これを別の角度から見てみると、

量子力学の世界では、

電子は原子を取り巻く「電子雲」の形で存在することが知られているが

これは「電子の取りうる位置」、つまり可能性を描くと

ぼんやりとした雲のような形になる、ということ。


一つの存在は、無限に考えうる「存在のバージョン」を同時に取って、

多次元的に存在する。


これを言い換えると、

「想像しうるものは必ず存在する」。


それが、一つを生み出したつもりが、

無限を生んでしまう説明にもなるだろう。



さて、「性」の話に戻ると

私たちの住む三次元の世界は、

二元性の支配を受けている。


どうしてかというと、

ここでは事象が時系列で並んでいて

違う時間のものは同時には存在しない、というルールがあるので

すべてのものはある状態に固定される。


どんな状態もアリ、の世界では

対極の状態すらもそのものに内包されるので

極性というものを考えること自体意味をなさないが、

状態が固定されていれば、さまざまなモノに対して

その真逆の性質というのをいちいち割り振ることができる。



さて、「性」に話を戻すと、

真逆の極性を持つ者同士が融合を果たすと、

「両極を内包するもの」、

つまり三次元の枠を超えたものになり得る。


「善と悪」「右と左」「上と下」など、

ほとんどのものは混ぜ合わせることができないが、

「男と女」だけは別。



性的なことというのは、

新しい生命を生み出し得るほどにパワフルだ。


人間のなせる行為のうちで、

最もクリエイティブで尊いものと言えるかもしれない。


それがやたらに貶められてきたのは

そこから取り出せるパワーの故なのに違いない。
2015-06-10 22:34 | Comment(0) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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